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社長コラム

工藤さん

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ニッポンのジレンマ

2021年3月号

    コロナ戦争を戦う中では、命も経済もどっちも大事だ。日本外交にとって、米国だって、中国だって、どっちも大事だ。人類の生存にとって、核兵器は廃絶すべきだが、米国の核には守ってほしい。
    だけど、「どっちもは駄目よ」と来たら、どっちをとればいいの?!
    生きていく上では、どうしようもないジレンマに陥って悩むことが多い。個人の日常でも国家規模でも同じだ。その時は、意を決して苦渋の決断をしてこそ、光景が開ける。
     今、日本は、内も外もジレンマだらけだ。コロナ戦争では、まずは徹底的な感染抑制に集中するブレーキを踏むか、経済再生を重視してアクセルを踏むかという二律背反の課題を抱えて、政府は腑抜けてしまい、ブレーキとアクセルを同時に踏んで、感染に火を注いでしまった。
    ここは歯を食いしばって、まずは大規模なPCR検査を実施し、感染者を徹底隔離するというブレーキを踏むのが先でなければならなかった。しかし政府は、国民の自制力によりかかるだけで、辛い選択・決定ができず、優柔不断のままに第3波の大感染を招く愚挙を犯してしまった。
    1年間を棒に振ってしまい、とうとう経済を復活させないと自殺者が出る…と、ここにも命の話を持ち込んで、命が先か経済が先かの選択肢をごちゃまぜにしてしまった。国民の高い自制力がなければ、大変な事態に陥っていたことだろう。
    ジレンマは外交の場面にもある。米国と中国対立の狭間にあって、日本は、自らの立ち位置を明確にして自国の利益を守らなければならない。この両国のどちらもが大切なのは、疑う余地もない。しかし現実には、その両国をどういう手順で大切にするかが問われており、この手順を間違えると、国益を損なう危険を孕んでいる。少しズームアップしてみよう。
    最近の中国の蛮行は目に余るものがある。ひとつは人権蹂躙…ウイグル族、モンゴル族、チベット族への数々のジエノサイト、香港での人権蹂躙だ。米国や西欧諸国は、これらの人権蹂躙に敢然と抗議しているが、日本政府の態度は曖昧模糊である。極め付きは、ウイグル族への蛮行を、米国がジェノサイトと認定した中、日本の外務省幹部は、次のような意味不明な恥言を吐いて、中国の顔色をみていることだ。「ウイグル問題をジェノサイトと認定しているのは現状では米国 のみだ。」「仮に日本がジェノサイト条約に入ってもウイグルでの人権侵害は止まらない。状況改善のために日本として何ができるかを考える方が大切だ」。
    近代世界が手にした唯一ともいえる資産である民主主義が、専制主義と戦っている重要場面においてのことである。
    かつて1989年の天安門事件での人権蹂躙に関して、宇野首相は、G7首脳会議で中国を擁護して、先進7カ国の顰蹙を買ったが、今回も、日本政府は、「人権」や「民主主義」に対する思いと見識の薄っぺらさを露呈している。
    もうひとつは、中国の領土拡張の暴挙である。南太平洋への軍事基地建設、台湾侵攻、それに、尖閣諸島占拠という、一連の太平洋を覆う中国の野望である。この蛮行には、「自由で開かれたインド太平洋」というコンセプトを、日・米・豪・印が共有して牽制・対抗している。米国の政権移動後も、日米の政策確認で、この開かれたインド太平洋というコンセプトが、両国間の基本防衛戦略であることが確認された。
    しかしここでまた、日本政府は腑抜けてしまった。1月28日の日米首脳電話会議について米国は、「中国、北朝鮮を含む地域安全保障問題を議論した」と報道したが、日本の官邸も外務省も、「中国」という言葉を一切発しなかったのだ。
    タカ派で高名な櫻井よし子さんは、このような中国の暴挙を叩くべしと、「命」の次元では意気軒高だが、(彼女にとっては低い次元の問題だろうが)中国に依拠している貿易が途絶える危険性をどう防いだらよいのかという「経済」の悩みに言及してはくれないので、おいそれとは賛成し難い。
    一方、実務化出身の見識派である寺島逸郎さんは、この問題は複雑であり、米国と一緒になって中国を敵にしてしまうような単能的な行動をとってはならないと警告する。
     そして日本の貿易の中に占める中国(+香港)の割合は24%と、アジアの51%に次ぐものだが、米国はわずか15%であり、日本が大事にすべきは米国ではなく、アジアと中国であることは明白だと宣う。
    しかし彼は、人権蹂躙や専制主義への対峙、領土拡張の暴挙への対峙の課題を抱えたままで、いったい中国とどのように仲良くしたらよいかの手順を示してはくれない。胃を痛めて選択する覚悟が見えず、複雑に絡み合ったしがらみを解く手順が見えない評論もまた、受け容れがたい。
    さてそれでは、このジレンマをどうしたらよいものか。難しそうではあるが、簡単明瞭であるともいえる。コロナ戦争の場面と同じだ。命か経済かの選択場面で胃を痛めずに、命も経済も大事…と、ブレーキとアクセルを同時に踏もうとするから難しくなるのであり、先ずは命・優先、人権蹂躙や専制主義(=アンチ・民主主義)は、断じて許せない態度を明確にして、領土拡張の暴挙も命優先の観点から許せないと、公的な見解として発信すべきである。
    そして命優先のメッセージを発する一方で、隣国中国は、日本にとって、かけがえのない経済的なパートナーであることを、誠意の風に乗せて発し、公式に外交の扉を開いている姿勢を示しておくことが重要であり、それで十分であると考える。
    この命の課題に関しては、毅然とした態度をとる一方で、貿易(経済)問題では、開いた関係で交流しないとお互いにダメージを受けるから、できるだけ円滑な交易を継続しようという働きかけを誠意をもって行うことが本旨だと思う。
    もうひとつの日本のジレンマは、核兵器である。
    国連の核兵器禁止条約は、2017年に国連総会で122カ国によって承認された後、50カ国が批准して、この2021年1月に発効した。奇妙なことに、唯一の核兵器被害国である日本の名前は、この50カ国の中にはない。日本は、米国の核兵器によって守ってもらっているから、核兵器廃絶を声高に表明するわけにはいかないということなのだろう。
    しかしこの選択は本末転倒であって、国家の見識としてはお粗末極まりないものである。日本政府はまず、13,400発もの核兵器は、神をも恐れぬ人間の悪業(あくごう)によってつくられた人間社会の真敵であることを表明した上で、核兵器禁止条約を批准すべきである。
    これは「人間の道」であり、最優先の意思でなければならない。「守り・守られる」は、その次の次元の問題である。「守り・守られる」…防衛問題は、人間の業が剝き出しに前面に出てくる現実課題であり、手練手管、百戦錬磨ありである。しかしやはり、この汚い世界であっても、最も人の心を動かし、国家を動かすのは、「大儀」であり、「人間の道」である。
    あのオバマ氏でさえ、米国の大統領として、核兵器のない世界に向けて行動すると宣言してノーベル賞を受賞した。政治の世界は何でもありの世界ではあるが、友好国であるためには、誠意が必須とされる。まずは日本は、米国に対し、核兵器廃絶の「大儀」を掲げた上で(この大儀は、オバマ元・米国大統領が選択した大儀と同じものである)、友好国としての最大限の誠意を尽くし、その上で核の傘の中での防衛を勝ち取る手だろう。
    米国は、日本が核兵器廃絶の大儀を選択したとしても、核の傘を日本に提供しないとは言わないはずだ。日本が「自分の国は自分の核で守る」という最後の選択をもっていることが分かっており、その選択をさせてはならないことが重々わかっているからだ。自国の元・大統領が選択した同じ大儀を、核兵器被害国の日本が選択することを、米国が拒否できるはずがないではないか。
    核の二律背反のジレンマは、融通無碍・不決断の日本政治が勝手に背負っている自慰行為に過ぎない。

命のブレーキは、最初に「大儀」に沿って「毅然」と踏み、アクセルは次に「誠意」をもって踏んでいく…これこそが生き方の王道であろう。個々人の生活の中であれ、国家政治の内政であれ外交であれ、この硬軟の見事な使い分けこそが、生き方の真骨頂である。

【工藤】

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